- 文化ツーリズムは現地の人の生活や文化に深刻な害をもたらす可能性がある。
- ハワイやヴェネツィアでは、観光の影響で文化が商品化されたり住民が追い出されたりする現象が起きている。
- 文化盗用の条件が重なると誤表象やジェントリフィケーションが進み、旅の倫理を見直す必要がある。
旅は本当に、文化を理解する行為なのか
――文化ツーリズムがもたらす「見えにくい害」
私たちは、他の文化を知りたいと思うとき、まず「旅」を思い浮かべます。
現地を訪れ、街を歩き、食事をし、人々の生活の気配を感じる。博物館や映像では得られない、豊かな経験がそこにあると信じています。
このように、文化を体験することを目的に行われる旅行は、文化ツーリズムと呼ばれます。
多くの人にとって、文化ツーリズムは学びや感動をもたらす、価値ある行為に見えるでしょう。
しかし、この論文は、そうした直感に静かに疑問を投げかけます。
文化ツーリズムは、訪れる側にとっては豊かな経験である一方で、訪れられる側の文化に、深刻で持続的な害を与えている可能性がある、というのです
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。
文化ツーリズムは「誰に」どんな影響を与えるのか
これまで、旅の価値は主に「旅行者の側」から語られてきました。
人格を成長させる、偏見を減らす、視野を広げる。そうした効用は、哲学者や思想家たちによって繰り返し強調されてきました。
また、観光は地域経済を支え、雇用を生み、文化の維持に貢献する場合もあります。
この点で、文化ツーリズムが一概に悪だと言うことはできません。
それでも著者は、視点を反転させます。
文化ツーリズムが、文化の「担い手」である現地の人々に、どのような影響を与えているのか。
この問いを正面から扱う必要がある、と論じます。
ここで問題にされるのは、単なる経済的損失ではありません。
文化的実践、生活の場、意味のある居場所――そうしたものが損なわれること自体が、「文化的な害」だと位置づけられます。
ハワイとヴェネツィアに起きていること
論文では、文化ツーリズムの影響が顕著に現れている例として、ハワイとヴェネツィアが取り上げられます。
ハワイの場合
ハワイでは、フラや言語、価値観といった文化的要素が、観光産業の中で商品化されてきました。
「アロハ」という言葉が、相互的な愛や関係性を意味していたにもかかわらず、観光広告のキャッチコピーとして消費される。
その結果、文化は「売るためのもの」へと変質し、
本来その文化を生きてきた人々が、自分たちの土地や文化から遠ざけられていく状況が生まれます。
ヴェネツィアの場合
ヴェネツィアでは、観光客の急増とともに住宅価格が高騰し、短期滞在向けの宿泊施設が街を埋め尽くしました。
結果として、住民は島を離れざるを得なくなり、街の人口は激減します。
表面上は賑わっていても、
その文化を日常的に生きる人々がいなくなる――
この逆説的な状況が、文化ツーリズムの核心的な問題として描かれます。
文化ツーリズムは「文化盗用」なのか
著者は、文化ツーリズムを理解するために、**文化盗用(カルチュラル・アプロプリエーション)**という概念を用います。
文化盗用とは、他文化の要素を取り込み、利用する行為です。
それ自体は中立的ですが、次のような条件が重なると、問題になるとされます。
-
文化的要素が「取られる」こと
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文脈を失い、誤って表象されること
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力関係の不均衡(支配)が存在すること
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文化の担い手が、選択や機会を奪われること
論文の重要な指摘は、
文化ツーリズムは、これらの条件を同時に満たしやすい行為だという点にあります。
観光客は、文化を「持ち帰る」わけではありません。
それでも、文化的経験を消費し、写真や記憶として自分のものにします。
その過程で、文化は簡略化され、期待に合わせて加工され、
やがて「観光向けの文化」へと置き換えられていきます。
「誤った理解」もまた、害になりうる
文化ツーリズムがもたらす害は、物理的なものだけではありません。
論文では、誤った文化理解そのものが、害になりうることも指摘されます。
観光体験が、断片的で演出されたものである場合、
旅行者は「分かったつもり」になりながら、実際には偏った理解を持ち帰ります。
これは、文化に対する誤表象を再生産し、
長期的には文化そのものの意味づけを歪めていく可能性があります。
文化ツーリズムは「文化的ジェントリフィケーション」でもある
著者はさらに、文化ツーリズムをジェントリフィケーションの一形態として捉えます。
ジェントリフィケーションとは、
外部からの人や資本の流入によって、
元々そこに住んでいた人々が生活の場を失っていく現象です。
文化ツーリズムの場合、
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観光向けの経済構造
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短期滞在者に最適化された街
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住民よりも訪問者を優先する政治的判断
こうした要素が重なり、
文化が存在する「場所」そのものが変質していきます。
重要なのは、これが単なる経済問題ではなく、
生き方や人生計画の基盤が壊される問題だという点です。
「みんなが少しずつやっているだけ」という反論について
ここでよくある反論があります。
「一人の観光客が与える影響は微小ではないか」というものです。
論文は、この点を集団的行為の問題として位置づけます。
気候変動と同じく、個々の行為は小さくても、
集積すれば構造的な害を生み出します。
さらに、文化ツーリズムは「終わった後に訪れればいい」問題でもありません。
観光は継続的に需要を生み続けるため、
参加する限り、変化のプロセスに加担し続けることになります。
文化は変わる。それでも「害」は存在する
文化は常に変化します。
外部との接触によって、新しい要素を取り込み、再構成されてきました。
それでも論文は、
変化することと、害を受けることは別だと強調します。
将来から見れば自然な変化に見えるものでも、
現在それを生きる人々にとって、
生活の基盤や意味の体系が破壊されているなら、それは害です。
結論:旅の倫理を問い直すために
この論文が示しているのは、
「旅をやめるべきだ」という単純な主張ではありません。
むしろ、
-
文化を体験するとはどういうことか
-
誰の負担の上に、その経験が成り立っているのか
-
文化を守る権利と、移動の自由はどう両立するのか
こうした問いを、私たちが真剣に考える必要がある、ということです。
文化ツーリズムは、
理解と尊重の行為にもなりうるし、
支配と損失の構造にもなりうる。
その分かれ目は、
「見る側」ではなく、「生きている側」を想像できるかどうか
そこにあるのかもしれません。
(出典:The Journal of Ethics DOI: 10.1007/s10892-025-09540-w)
