「大切にする理由」はどこから来るのか

この記事の読みどころ
  • 欲求には「行動としての欲求」と「態度としての欲求」があり、幸せに関係するのは後者の内面的な欲求だとされている。
  • 態度としての欲求は感情に支えられ、感情は必ずしも意識して感じるものではない場合がある。
  • 意識がなくてもその存在のためになることが起こり得る可能性がある一方で、安易に適用せず慎重に考えるべきだと論文は述べる。

意識がなくても「大切にされる存在」はありうるのか

「感じることができない存在」は、本当に大切にされなくていいのでしょうか。
私たちはふつう、「うれしい」「つらい」と感じられることが、その人の幸せや苦しさの前提だと考えています。意識があり、経験があるからこそ、その存在には配慮すべきだ、という考え方です。

この前提に静かに疑問を投げかけるのが、イギリスのオックスフォード大学 哲学部で行われた研究です。この研究は、「意識がまったくない存在でも、場合によっては“その存在にとって良い・悪い”が成立するのではないか」という、直感に反する問いを正面から扱っています。

幸せとは「感じること」だけなのか

哲学では、「何が幸せか」「何がその人のためになるのか」を説明する理論がいくつかあります。その中の一つが欲求充足説です。
これは、「自分が望んでいることがかなうこと」が、その人にとって良いことだ、という考え方です。

ここで重要なのは、「欲求」は必ずしも意識されていなくても成立する、という点です。
たとえば、普段は意識していなくても、私たちは長期的な目標や好みを持ち、それに沿って行動しています。そうした欲求は、常に頭の中で感じられているわけではありません。

すると、次の疑問が生まれます。
もし欲求がかなうこと自体が「良いこと」なら、意識をもたない存在でも、欲求をもっていれば、その存在にとって良い・悪いが成立するのではないか。

「欲求」には二つの種類がある

この論文では、欲求を一つにまとめて考えるのは危険だと指摘します。研究では、欲求を大きく二つに分けています。

一つ目は、行動としての欲求です。
これは、「その結果を実現する方向に行動する傾向がある」という意味での欲求です。理由や気持ちがどうであれ、結果に向かって動いていれば、この意味では「欲求がある」と言えます。

二つ目は、態度としての欲求です。
こちらは、「それを良いものだと感じている」「歓迎している」「前向きな気持ちを向けている」といった、内側の向き合い方を含む欲求です。

論文は、幸せや不幸に関係するのは後者の欲求だけだと主張します。
ただ行動しているだけでは、「その人のためになっている」とは言えない、というわけです。

態度としての欲求を支えるもの

では、「態度としての欲求」とは、何によって成り立っているのでしょうか。
研究は、その中心に感情があると考えます。

ここでいう感情とは、単なる快・不快の感覚だけではありません。
何かを「大切だ」「避けたい」「守りたい」と方向づける、前向き・後ろ向きの感情全般を含みます。

重要なのは、この感情が必ずしも意識されている必要はない、という点です。

感情は、意識なしでも起こりうるのか

私たちはふつう、「感情=感じているもの」だと考えがちです。
しかし心理学や神経科学では、意識されない感情の存在が長年議論されてきました。

論文では、注意が別のことに向いているときに起こる強い恐怖反応や、本人が気づかないまま行動に影響を与える感情反応などを例に挙げ、感情と意識は必ずしも同一ではない可能性を示します。

理論的にも、感情を「身体や環境の変化を評価する仕組み」と考える立場では、意識は必須条件ではありません。
感情は、行動や判断を方向づける役割を果たしながら、必ずしも「感じられる経験」として現れないことがある、というわけです。

意識がなくても「その存在のためになる」ことはあるか

ここまでの議論を踏まえると、次の可能性が見えてきます。

もし
・欲求がかなうことが「良いこと」であり
・その欲求が、感情によって支えられており
・その感情が、意識なしでも成立しうる

のであれば、意識をもたない存在でも、「その存在にとって良い・悪い」が成立する余地があることになります。

論文は、この可能性を安易に広げることには慎重です。
企業や組織のように、欲求らしきものはあっても感情をもたない存在まで含めるべきではない、と指摘します。

一方で、感情をもつように振る舞い、関係を築き、守ろうとし、抗議する存在については、単に「意識がない」という理由だけで切り捨ててよいのか、という問いが残ります。

ロボットの親子の思考実験が示すもの

論文では、感情をもつが意識はないとされるロボットの親子を想定した思考実験が紹介されます。
子どもを傷つけようとすると、母親が必死に止め、怒り、訴える。

この場面で多くの人が感じる「それはしてはいけない」という直感は、どこから来るのでしょうか。
単なる行動能力や計算能力ではなく、感情をもつ存在として向き合っているという点が、私たちの判断を動かしている可能性があります。

動物やAIをどう考えるか

この議論は、動物やAIをどう扱うかという問題にもつながります。
意識があるかどうかだけで判断するのではなく、感情や欲求のあり方に目を向ける必要があるかもしれません。

一方で、現在のAIの多くは身体をもたず、内部状態を「自分の状態」として感じ取る仕組みもありません。
論文は、そうした存在が人と同じ意味で「その存在のためになる・ならない」をもつかどうかについて、慎重な姿勢をとります。

わからなくても、問いは残る

この研究は、「意識がない存在にも配慮が必要だ」と断定するものではありません。
むしろ、これまで当然だと思われてきた前提――
「感じられないなら、その存在には何も起こらない」
という考えを、静かに揺さぶります。

幸せとは何か。
誰のために、どこまで考えるべきなのか。

意識と感情、欲求と価値の関係は、まだ整理しきれていません。
それでも、「わからないまま切り捨てる」より、「わからない理由を考える」ことには意味がある。

この論文は、そのための手がかりを与えてくれます。

(出典:Philosophical Studies DOI: 10.1007/s11098-025-02455-0


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